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<34>ルー・リード詩集 [無謀なる365冊]

今頃なんでルー・リードなのかと云うと、先頃1993年の(再結成された)ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの映像を視たからなのだ。ヤバイ胸騒ぎが静かに広がり、ヤフオクで定価の2900円で落札した。

ルーリード詩集bookpoet.jpg


ルー・リード詩集 / ニューヨーク・ストーリー
Between Thought And Expression

梅沢葉子 訳
1992年 河出書房新社

以下概要(訳者あとがきより)〜

本書は1965年から1990年までのルー・リード自薦歌詞集。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド時代のものを含む87曲の歌詞と二つの詩、それに二つのインタビュー(チェコスロバキアのハヴェル大統領とニューヨークの作家ヒューバート・セルビー)が入っている。

〜概要終わり

全篇(あとがき等も含めて)の文字(活字)は黒字の白抜き。
表紙は窓が開いてそこ、ルー・リードの横顔。うむむ。
むかしこんな表紙を視たことがあった、「遠くまで行くんだ」だったっけ、「秋山清全詩集」だったっけ。わたしもいつかこんな表紙にしたいと垂れ流す。

以下引用〜

自分の体と この世で体が欲しがるものすべてが
嫌いになったと キャンディが言う
みんなが遠回しに話していることを全部知りたいと
キャンディが言う


「キャンディが言うには(The Velvet Underground 1969)」

〜引用終り

横書きの頁の下に、「キャンディはおかまだった。彼女はホルモン注射が原因のガンで死んだ。」とある。流して読んでいてこんなところで引っ掛けられてしまった。

以下引用〜

君はぼくの山頂だと思った
君はぼくの頂点だと思った
君をすべてだと思った
持っていたのに引き止めておけなかったすべて
持っていたのに引き止めておけなかったすべて


「ペイル・ブルー・アイズ(The Velvet Underground 1969)」

引用終り〜

じつはヴェルヴェット・アンダーグラウンドはほとんど聞いたことがない。
それでまあ焦っているのかも知れない。なんと云う小物だろう。

以下引用〜

伝説の心がおれたちを引き裂く
あいつらの恋物語のせい
やつらの立派な超越した愛
おれたちはここでけんかして
伝説の恋の一夜をまた逃す

(中略)

伝説の心がおれたちを引き裂く
おれたちの感情をズタズタにする 大声で助けを求めながら
伝説の恋は上からやってくるものではない
いまこの部屋にある

まともなことのためには闘うしかない


「伝説の心( Legendary Hearts 1983)」

〜引用終り

なんだか悲しくなってくるし、どうでも良い気もする。
音楽もなんだかおんなじフレーズのようで(ただ聴いていない知らないだけなのかも知れない)、それが良いようで、、
80年代を過ぎると、なんだか革命ゲリラの決起の詩のようでもあり、おっぺけぺ節のようでもあり、
なんたらかんたらヴェルヴェット・アンダーグラウンド/ルー・リードは凄ければ凄いだけ悲しい。

なので、多分一番美しい詩を。

以下引用〜

そして 女優たちは
帰りの遅い男優と通じ合っている
芝居がはねたあと
客はみんな
街灯の下 路上に散っていった
この美しいショーの中のショーに
どんなショーもかなわない
ブロードウェイだけが知っている
“白い大銀河”
それは何かを訴えていた
体をつなぎとめるものもなく
宙を舞い
膝から地面に落ちた時
パラシュートなしで公演するのは
あまりかっこ良いものではなかった
彼は壁から突き出した桟に立ち
遠くを見つめ小川を見たと思ったーー

そして彼は叫んだ「ほら!鐘だよ!」
彼は歌いあげた「鐘の音が聞こえる!」
「鐘の音が聞こえる!」
「鐘の音が聞こえる!」


「鐘(The Bells 1978)」

〜引用終り

これでお仕舞い、今日は疲れた。
41年は長過ぎる。短すぎる。


<33>詩論『詩の方へ』岩成達也 [無謀なる365冊]

岩成達也詩の方へ31+9czwkliL._SL500_AA300_.jpg

この書物も長い間旅行鞄の中であちらこちらと旅を続けた。
このままずっと読めないかも知れないと思っていたけれど、一応「速読」もせずに読み終えることが出来た。
読み終えてもどこがどうなったのか、それが重要なのです。

言葉は追いながら、理解力が追いつかなくてもめげずに読み進むことにやっと最近なれて来た。
いけない読み方かも知れないが、良しとしている。

詩にはやはり根拠があった。(詩法には)
ほんの少しだけ近づいた気がした、それが錯覚であると判る気がした。
パーセントで表現するのがみっともないくらい、判らない部分が多い。
各章ごとの「註」にあげられた参考文献は100パーセント読んだことがない。
困ったことだ、でもめげずに読んだ。抜き書きも難しい。

以下引用〜

 つまり、ここでは(この絵画の辺境では)
 線・色:(概念):第二の意味
という関係が成り立っている、と思えるのです。

(「Ⅰ.第一要請/詩(論)を求めて」より)

〜引用終り

詩の場合はどうなのか?この構造に当てはめて良いのか、本当に。
隣接するあなたの言葉。

以下引用〜

 では、詩の場合にはどうでしょうか。(中略)そこには二つほどの強力な仕組みが、いまや一種制度に近い形で存在していることが判ります。(中略)二つの仕組みとはなにか。
 一つは、抒情という仕組みであり、もう一つは行分けという仕組みであると思います。だが、抒情や行分けを考える前に、もう一つだけ考えておくべきことがあるようです。絵画は線と色でつくられ、音楽は音でつくられる。では、詩は何でつくられるのか。あまりにも当たり前の答えですが、詩をつくるものは言葉です。しかし、困ったことに、言葉は詩だけでなく、散文もまたつくるのです。のみならず、普通、言葉は意味から切り離せませんから、言葉の組み合わせ←→意味の組み合わせ←→概念の束(世界)という経路で、たちまちにしてそれは散文になってしまうのです。   (「同上))

〜引用終り

この「第一要請」と云う章はわたしにはとても飲み込みやすい。ただとても巨大なテーマだ。
巨大なる要請とは?ただまだここは高原だ。
そして、第二要請。

以下引用〜

さて、わたしもまた、

 私(達)の世界を定立し構成するものは言語である。

と考えたい。だが、私の場合にはこのことは必ずしもソシュールのように「言語名称目録観」の完全な否定を意味しない。つまり、端的に言えば、私の場合、この命題は直ちに「知と言語とはどのような関係に立つのか」という問いをひき起し、ついで「知覚(身体)と言語とはどのような関係に立つのか」という問いをもひき起すからだ。
   
(「Ⅳ.第二要請/詩についてのごく僅かの手がかり2」)

〜引用終り

そうじゃない重力がわたしにかかってくる。険しい傾斜だ、息が切れる。理解度の欠如か。しかし、青い空。

以下引用〜

 さて、以上のような迂回の後、出発点である「私(達)の世界を定立し構成するものは言語である」という言明を見直してみると、この言明が言う「言語」は、「語ること」ではなくて「語られたこと」にひきつけて理解するのが適当でないかという考えが生じてくる。というのも、「創造的な言語使用」にしろ「意味生成」にしろ、「語ること」においては、「世界」はいまだ定立されるにはいたらず、その構成も不安定だと考えざるを得ないからである。あるいは、それがまだ確たる輪郭には達していないと言ってもよい。
 そして、もしこの考えが正当であるとするなら、当初の言明は次のように言い直すことができるだろうーー   

 私(達)によって語られた(る)こと/ものが、私(達)の世界である。


(「Ⅳ.第二要請/詩についてのごく僅かの手がかり3」)

〜引用終り

ここまで来なくても私は良いのではないだろうか、いいえ、と云う声が聞こえる。
しかし何故、山に喩える?さらに空は青い青い、空の向こうが視えるだろうか?登山者には当たり前の感覚?

以下引用〜

 詩とは、言語によって私(達)の世界を超出しようとする営為である。

 勿論、かかる営為を実践するものは詩だけではない。神学もまたかかるものの典型であり、更に古代においては神学と詩の区別はなく「神話」として一つであったということを思えば、あらゆる言語が必らず「詩」をもつという所以も納得できるように感じる。もっとも、神学は理念と論理を、詩は知覚を、それぞれ手放したがらないようにもみえるが、それもまた絶対的なものではないだろう。

(「Ⅳ.第二要請/詩についてのごく僅かの手がかり3」)

〜引用終り

来るべきして来た様な気もする。ここが入口のような気もする。
そうでないかも知れない。ここからが空だ。


著者  岩成達也
発行  思潮社
発行日 2009年7月30日

<32>詩集『御世の戦示の木の下で』中尾太一 [無謀なる365冊]

繊細でのめり込んでくる。熱帯の木の根のようだ。
意味のない比喩はさておいて、この詩集はどういうものだろうか?考えさせられる。営業中に立ち読みをする。(3頁だが)

以下引用〜

手遅れもなく、危機もなく、透明な火葬はフィルムにうつった朝焼けだ、貴方と睦みあったざんぱんの痙攣づたいに降りて来た悪魔だ  (「革命飛行船/攻防の始まり」)

〜引用終り

永井壕の『デビルマン』のようでもあり、破損した「才能」のようでもある。

以下引用〜

その生と死の、これからはまったく同じ光の原理の下に寄生する微温の一日は、この温度をどうか導いてと、言っているのかどうか。伝わる、伝わらない、伝わる、伝わらない、と名前の知らない花弁をむしりながら、霧の中、僕は僕の愛する人のこころを探している。  (「御世の戦示の木の下で/2 星屑のあとがき」)

〜引用終り

小説も映画も詩も一回しか読んだり視たりしかしないのですが、ふたたび愛することもある。
ふたたび愛したいこの詩集である。それで背広を着て立って読んだり(3頁だが)、酔っぱらって読んだりもしている(3行だけれど)。

以下引用〜

今日、あなたの娘たちはあなたから遠く離れたどこかで、ちょうど半分ずつ、チーズとサラダ菜が入ったサンドイッチを食べている。僕はどこか知らない町を歩いている。
僕は戦争の話をしている。御世の戦示の、一形象の話を、自動的に話している。
自動的に、僕は戦争の話をしている。  (「御世の戦示の木下で/2 星屑のあとがき」)

〜引用終り

そうだ、僕は<センソウだ>と思っていたけれど、「僕は戦争の話をして」いるのかも知れない。
計り知れないセンソウの雨やセンソウの沸騰を感じながら。僕はセンソウに行く、行かない。

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著者 中尾太一
発行 思潮社
発行日 2009年10月25日

<31>小説『狙われたキツネ』ヘルタ・ミュラー [無謀なる365冊]

買ってから数ヶ月、めでたく尾張名古屋で読み終えることが出来た。
ここ数日暑さも営業も容赦なく責め立てるものだから。何故かこの小説は「励み」になった。
なぜか?ちいさなうすいイメージは感じられるが、書くことは出来ない。
それで、

以下引用〜

 ときどき遠くから銃声が聞こえるんだ。それほど大きな音じゃない。木の枝が一本折れたみたいな音だ。

〜引用終り

読書の途中から、なにも印を付けていないことに気がついた。ちいさく折り目を付けることにした。

以下引用〜

ただひたすら飲み続ける。だれかが銃で撃たれたってことを忘れられるまで、プラムミルクが脚をふらふらにするまでね。とにかく忘れることなんだ。そうすれば、ついには何ひとつ考えられなくなって、ドナウ川がこの村を世界から遮断しているのも当たり前のことのように思えてくるんだーー

〜引用終り

シナリオ的な手法。イメージが関係になり、関係が声になる。1989年、ルーマニア。

以下引用〜

 それからパウルが歌いはじめたのだった。リーヴィウも声を合わせた。

   顔のない顔がある
   頭は砂でできている
   そして声なき声
   あんたらと何を交換することができるんだろう
   兄弟のなかから好きなのを選べばいい
   その代わりタバコを一本置いていけ

〜引用終り

ここがはじめての折り目の部分。
そして次は、最後の折り目の部分。すこし長い引用になる。

以下引用〜

 これだっておかしいじゃないか、とアビは考える。この窓も外の雨に濡れた道から見れば、ただの窓でしかないなんて。それに毎日、毎晩、世界は、盗み聞きをして他人を苦しめるやつらとひたすら沈黙をつづける人々に分かれているなんて。それからこれだっておかしい。中庭の養蜂舍のそばで、ひとりの子どもが、ゼラニウムを植えた植木鉢がわりのさびついた浴槽の前にいる母親に、父親はどこにいるのかって尋ねるんだ。すると母親は子どもの腕を高く持ち上げて、その手を自分の手にとり、小さな指を折りまげ、人差し指だけを伸ばして上へ向ける。そうして母親は手を離して、「ごらん、お父さんはお空の上にいるのよ」って言うんだ。
(中略)
子どもは、疲れている女王蜂を起こしたくはないので人差し指をひっこめて、「お父さんは何て名前だったの?」と尋ねる。すると母親は、「あのひとはアルベルトという名前だったわ」と答える。こんなおかしなことがあっていいのか。

〜引用終り

まったくだ。こんなおかしなことがあっていいのか。こんなおかしなことだらけで、世界や高層ビルはできている。安アパートだって。

今度(とお化け?)、コラージュ詩と云うのを読んでみようと思う。

新装版 狙われたキツネ
2009年11月20日発行
著者 ヘルタ・ミュラー
訳者 山本浩司
発行 三修社

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<30>よしもとばなな『どんぐり姉妹』 [無謀なる365冊]

どんぐり兄弟ではなく姉妹なので安心する。
無謀なる365冊に軽く思いひきずられている猛暑の静岡で、甲府岡島三省堂で買った『新潮2010.8』をまるごと速読しようとするが『どんぐり姉妹』180枚を今朝読み、久々の無謀365を更新する。

以下引用〜

私の名前はぐり子。姉の名前はどん子と言う。

〜引用終り

小説なのでありえるのだけれど、

以下引用〜

私はこれまでにいったい何人の人から、名乗った瞬間に「ぐりとぐら」からとったのですか?と聞かれ、

〜引用終り

わたしはぐりとぐらを読んだことがないので、カステラの話にはならないのだが、ぐり子と会ったらそう聞くかも知れないし、一粒300メートルなのですかと聞くかも知れない。

姉妹と云うのは海月のようだなと思った。
いいえ、どんぐりなのだった。

ちなみにわたしは交ぜ合わさった末っ子である。
何故か最近下の姉が、わたしの絵を描いて送って来たそうだ。
まだ東京に帰って視てはいないのだけれど。

新潮20100707.jpg

<29>『王様の速読術』斉藤英治 [無謀なる365冊]

速読の本を三冊まとめてアマゾンで買いました。
気負って期待するとなにも残らないと思い気楽に読んでみました。

以下引用〜

 王様の速読術では、三〇分の速読時間を三段階に分けて考える。
第一段階では、プレビューを五分間行う。
第二段階では、5分間で全ページを写真読みしていく。
第三段階では、残りの二〇分を使ってスキミング法で読んでいく。
これで合計三〇分で、一冊を読むのである。

〜引用終り

これが結論。
それから、

以下引用〜

つまり、自分にとっての先生であり、尊敬でき、最高の一冊と思えるような本に出会ったら、何度も読み返し、たっぷりと時間をかけ、暗記してもいい。そこまではいかないのなら、そこまではいかない本として付き合う。(「主体は自分。本の家来から脱出すべし」)

まず速読術でも最速の方法を使って、五〇冊にあたり、その違いを知ったうえで必要な一〇冊に絞る。そして、まず一〇冊をさらに速読でより深く知り、その中でも大切な本を選び出す。大切な本は二冊ぐらいだ。これはほかよりも少し時間をかけて読む。残りの八冊はその二冊との関連で必要な部分だけに時間をかける。(「50冊の中から10冊を選んで、1週間以内にレポートを出すには?」)

小説は、じつはあまり速読に向いていないと言われている。速読術の定型的なパターンを崩す作品が多い。トリッキーな技巧を駆使して、ちゃんと読まないと勘違いするような仕掛けが巡らせてある作品もある。なによりも、優れた作家は一字一句まで神経を行き届かせ、それぞれに意味を持たせている場合があるので、油断がならない。(「ルーブル式、アーサー式で小説を読む」)

キーワードを読むことが、スピードを上げるコツだ。スキミングだけでなく、キーワード読みを主体とした速読術は有効だ。
キーワードがわからないーという声はよく聞く。速読の初心者が陥りがちなことだ。
キーワードには二種類ある。著者が訴えているキーワードと、みなさん自身が持っているキーワードである。(「キーワードだけを読む」)

〜引用終り

速読はちから也?

王様の速読術4478733295.01._SCMZZZZZZZ_V51433183_.jpg
著者:斉藤英治
発行所:ダイヤモンド社
第1刷発行:2006年5月


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<28>詩集『冬至の薔薇』/相澤啓三 [無謀なる365冊]

相澤先生です。
わたしはファンなのです。
全篇引用したいくらいです。

以下引用〜

ないは不思議なことば
ないがなければないはないのだから

記憶と期待が見出したないという様態は
もともと動物が生きるための脳の働きに宿った

ないあるないあるは意識以前の情報処理のABC
ないがなければ暗黙の推論もないのだから

あるいはことばがなければ在るは或るのまま
あらゆるもののなかに棲みつづけたかもしれない

そののっぺらぼうの在るに切れ目を入れ
ことばのないがないものを見世にならべた

ないは欲望をそそる不思議な流れ
悲しみと不安と怖れを浮かべ
争いの波で在るを洗い出す

(「非在のノイズ 2」)

〜引用終り

先生はどうも山梨(甲府?)の地域に非在の古里をお持ちらしい。
1月に営業で行って来ました。でも甲府市内の小さなアーケードを行ったり来たりしただけ。

〜以下引用

おお、老いた魂に
血を香り立たせる冬至の薔薇!

(「冬至の薔薇」)

〜引用終り

おお、なぜこれが第一声なのだろう。二連三連と、そして詩集最後の詩連へと、
(「冬至の薔薇」から「まだ見ぬかたの花」へと)
悲しみは揺さぶられ
かすかに花も老いも革命も、非在さえもが咲いています。

なにか書こうとしていたのですが、
それも何日か思っていたのですが思いつかないまま日が過ぎてゆくので
これで終わりです。

ほんとうは「革命」と云う連詩にかなり深くきたのですが、
わたしには手に負えませんでした。

おおきなお世話ですが、皆さんも読んでみてください。

相澤啓三/冬至の薔薇201003786.jpg

冬至の薔薇
著者 相澤啓三
発行 2010年3月15日
発行所 書肆山田


<27>詩集『生の泉』/中村剛彦 [無謀なる365冊]

ご恵送ありがとうございます。
表紙の網網が綺麗です。
中村剛彦『生の泉』514GEX2wmrL.jpg

二人の若い詩人は死んで、一人は生のかなたへ、
もう一人は泉の無尽へ。

この復活の書に、内省の破綻と波乱にどんな動物が出てくるかを視てみたい。
一番綺麗な詩「残照」
以下引用〜 

中空には月があります
野原では少年が兎を追いかけています

果樹園のお婆さんは何を摘み入れて
あんなにかごがいっぱいなのでしょう

ロバが小屋から出てきました
晩ご飯を探しているようです

〜引用終り
まず<兎>、そして<ロバ>
とりあえず漠然とした空を舞う絵本の一頁なのかしら
いいやなにかがリアル

そして<驢馬>
まぼろしの驢馬の瞳は忘却の筆が少しずつ消してゆくのだと云う、(「驢馬』)

「君から譲り受けた幻の驢馬の仔」を捨てて来てしまったらしく、
「驢馬の亡骸の絶叫」のみが聴こえてくるのだ。(「帰郷」)

そこは詩想のなか、
ノートを開けば「意味のない芸を繰り返す一人ぽっちの犬がいる」
犬は吠えつづけ「ノートは灰となる」。(「詩想」)

「書物のなかで生きる獣」たちらしい、おそろしい叫び声を上げている。
それは「永遠に生を抜き取られた怪物」たちである。(「詩想二」)

「かつて詩人を夢見た中年男」が狙っているのは、<鼠>だ。
しかしながら<鼠>はすでに記憶の祭壇で<黒猫>に咥えられてしまっている。(「詩想五」)

<夢魔>も動物だろうか?獣たちだ。<蠍>が来る。
「胸骨の傷」はすでに<蠍>の住処。この<蠍>は<夢魔>からの使いだろうか。(「夜想」)

<哀れな野良犬>は「お前に唯一ついてきた良心」。
「君の言葉はたしかに繋がれた犬の遠吠えだった」
「先を行く者」は「ただ野良犬とともに天を仰ぎ/すべてを忘却していく」(「銃口」)

ところがです、
(「山下公園の回想」)では<鴎>が登場します。
「君は笑いながら/ときに泣きながら/鴎のように両手を大きく振って/泡立つ僕のこころの傷に海風を送る」のです。それから、<鳩>も出て来ます。鳩は死んだけれど、君はたしかに愛していました。

この<犬>は、野良犬ではないのでしょうか?
「(たとえばあの遊覧船の旅、犬との雪合戦、放課後の夕日・・・)」
華やかな色彩の最後の夢だったか。(「終わらない」)

<梟>がいます。光の玉を草の上に転がす老父の顔。
<魚>がいます。小さな魚は泉のなかに生き生きと泳いでいるのです。
<お前が真に愛した動物>たちに光の玉は守られています。(「喪失」)

そして<ツグミ>です。
<ツグミ>は、「君の精神に」降り立つ鳥の一羽です。
「歴史のごみ溜めを羽ばたいてきたツグミ」です。(「αの詩のために」)

また<犬>。
「私の傍らには犬しかいない」それでも・・・と云う私のたしかな羽ばたきを感じます。(「生命について」)

ああ、<亀>も居ましたよ。ここは好きです。
少年は胸をかきむしり、校庭のまん中で叫びます。
「頭の中で亀がひっくり返る/「いやだ、いやだ!」」

悲しそうな<犬>と<猫>、「君に相槌をしにくる」<白い鳩たち>。(「雪解け」)
<死んだ主人を待つ犬>。(「海岸」)
「昔あなたが私に聞かせてくれた終わりのない物語り」、「あの子犬たちのいる庭」の<子犬たち>。(「灯火」)

以下引用〜

おそらく世界のどこかに
今夜も窓にかかる月を眺めている少年がいる
ノートには星屑の航路が描かれている
楽しい形をした島々も浮かんでいる
少年の未来は美しい
僕らはついにそれを書けなかった

(「月光」)

〜引用終り

泉に銀河がわき起こり、動物たちが泣いたり笑ったり、逃げたり帰って来たり。
二人の若い詩人がこの泉に甦る。

もう日が昇り、白い月も消えてしまいました。
お疲れさまでした。
さあ出かけましょう。


著者 中村剛彦
発行 ミッドナイト・プレス
発行日 2010/1/26









<26>秋山基夫『黒い窓』/ペーパー第6号 [無謀なる365冊]

ペーパー6号100311_165659.jpg
送っていただき、いつもありがとうございます。今号は一気に読みました。前号はそのうちといううちにどこかへまぎれ。。

とにかく、秋山氏の文章は強くて長い。
Y氏の若き日の見聞談にもとづくわたしの想像→記憶は抹殺すべきだ(と秋山氏が云っている訳ではない)→神話暦二千六百年代の初夏の夜→
以下引用〜

いまきみが黒い夜をこっそり歩くと、きみはいまでも黒い窓が並んでいるのを見るだろう。
おい、こら、誰だ、そこにいるのは?おい、おまえ、憶えているか?

〜引用終り
→吉田氏のおもしろい話→萩原朔太郎の「ベートーベン第九の局所買い」→昭和17年頃の詩の朗読会→1960年代後半自作詩を始めたとき、朗読というものをうさん臭い眼で見た人もいた→作品「routine15」
以下引用〜

庭先の赤い鶏頭のひとかたまりをぼんやり見ていた
十四五本はあるにちがいなかろう
(芸無しの午後だった)
十四五本のニワトリの
赤いトサカの頭がコッココッコと鳴きながら
空をいっせいに見上げているのを
ぼけ面して見ていた
赤いトサカの頭の下には
もちろんニワトリの横顔もないし顔の下の頸もない
胴体もなければ羽根もない
植物の茎がまっすぐ地面につづいていて
それら十四五本の鶏頭のひとかたまりを
縁側に坐って
斜め上から見おろして
思わず目をこらしてしまっても
根元がどうなっているのか見えない
赤いトサカの頭だけの脚のないニワトリの幽霊だ
正岡升さんは子規っていうんだよ
この人は幻想出現装置としての二十坪の庭をもっていた

〜引用終り
→「記憶されえぬもの 語りえぬもの」、「痕跡の消失」と「生還者の物語ることへの不可能性」→語ること自体が事実を歪めるのではないかという疑問→「語ること」は「騙ること」→入沢康夫「わが出雲・わが鎮魂」→
なかなかオッツイて行くのが大変なのだがこんなぐあいに大蛇の螺旋のように、ある時は気まぐれのごとく、ある時は神経質に、文はうねってゆくのです。
「参考文献及び若干のノート」も参考文献というよりまったくの本文で、若干のノートも当たり前のように膨大ですげえ。「詩論ノート番外」もこれを緻密な逢い(愛)というのでしようか蛇はこれでもかと螺旋をうねる。
とってもおもしろかった。

2010年2月1日発行
編集・発行 秋山基夫
制作 paperback 則武弥

<25>吉増剛造『静かなアメリカ』 [無謀なる365冊]

吉増剛造/静かなアメリカ20100124_yoshimasu01.jpg

詩と格闘するのが楽しいと書けばとても恥ずかしそうにしてしまう

吉増剛造の、ように読む(書く)ことができるだろうか?
吉増剛造のように、書かない(読まない)ことが可能だろうか?
吉増剛造のように恥じらうことが、

なぜ去年の暮れ、『静かなアメリカ』は東京駅八重洲古書館にあったのだろう。
年が明けて、4日の日に「大丸の仕事の打ち上げ」をやるというので、

どこかにカセットテープで残っているかも知れない、上池袋の下宿先にて、
中條くんはビール瓶に口をあてて即興し、『黄金詩篇』『王国』を朗読し、

高田馬場の「清瀧」で隣り合わせた、「ギターやるの、こんどいっしょにやりましょうよ」
基本コードしか弾けないわたしは恥ずかしかった

女子を口説くときある種の人は、むかしつきあった女や親友のことを語るのだ
勇気を持って詩をかたる

思う限りの最高峰の感覚が、
あり日常でもあり、
297頁の書のなかに40いじょうの付箋を付けてしまい
水色、うすいピンク、白地に濃い赤、黄色、濃いピンク、など
引用負荷の一冊。

発行2009/11/30
発行所書肆山田
赤いブックカバーがとても痺れる


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