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<26>秋山基夫『黒い窓』/ペーパー第6号 [無謀なる365冊]

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送っていただき、いつもありがとうございます。今号は一気に読みました。前号はそのうちといううちにどこかへまぎれ。。

とにかく、秋山氏の文章は強くて長い。
Y氏の若き日の見聞談にもとづくわたしの想像→記憶は抹殺すべきだ(と秋山氏が云っている訳ではない)→神話暦二千六百年代の初夏の夜→
以下引用〜

いまきみが黒い夜をこっそり歩くと、きみはいまでも黒い窓が並んでいるのを見るだろう。
おい、こら、誰だ、そこにいるのは?おい、おまえ、憶えているか?

〜引用終り
→吉田氏のおもしろい話→萩原朔太郎の「ベートーベン第九の局所買い」→昭和17年頃の詩の朗読会→1960年代後半自作詩を始めたとき、朗読というものをうさん臭い眼で見た人もいた→作品「routine15」
以下引用〜

庭先の赤い鶏頭のひとかたまりをぼんやり見ていた
十四五本はあるにちがいなかろう
(芸無しの午後だった)
十四五本のニワトリの
赤いトサカの頭がコッココッコと鳴きながら
空をいっせいに見上げているのを
ぼけ面して見ていた
赤いトサカの頭の下には
もちろんニワトリの横顔もないし顔の下の頸もない
胴体もなければ羽根もない
植物の茎がまっすぐ地面につづいていて
それら十四五本の鶏頭のひとかたまりを
縁側に坐って
斜め上から見おろして
思わず目をこらしてしまっても
根元がどうなっているのか見えない
赤いトサカの頭だけの脚のないニワトリの幽霊だ
正岡升さんは子規っていうんだよ
この人は幻想出現装置としての二十坪の庭をもっていた

〜引用終り
→「記憶されえぬもの 語りえぬもの」、「痕跡の消失」と「生還者の物語ることへの不可能性」→語ること自体が事実を歪めるのではないかという疑問→「語ること」は「騙ること」→入沢康夫「わが出雲・わが鎮魂」→
なかなかオッツイて行くのが大変なのだがこんなぐあいに大蛇の螺旋のように、ある時は気まぐれのごとく、ある時は神経質に、文はうねってゆくのです。
「参考文献及び若干のノート」も参考文献というよりまったくの本文で、若干のノートも当たり前のように膨大ですげえ。「詩論ノート番外」もこれを緻密な逢い(愛)というのでしようか蛇はこれでもかと螺旋をうねる。
とってもおもしろかった。

2010年2月1日発行
編集・発行 秋山基夫
制作 paperback 則武弥
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