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<24>ウィリアム・サローヤン『心は高原に』 [無謀なる365冊]

心は高原に。うまいこと云うなあ、「The Man With the Heart in the Highlands」です。
「こころここにあらず」とはどのくらい離れているのだろう?
恋愛や使命感や望郷や、
とは云え、

以下引用〜

「どうして、おじいさんの家族の心は高原にあるの?」
「それがわしらの生き方だからじゃよ。今日はこの岸、明日は彼の岸」
「今日はこの岸、明日は彼の岸?」
「今は生きておっても、次の瞬間には死ぬかも知れんということじゃよ」

〜引用終り

「わが心ここにあらず」とは地球二廻り半、離れているか?
なんといっても「高原に」あるのですから。
そう思って表紙を視ればこれがなかなか良い絵なのです。
サローヤン 心は高原に.jpg

思えば去年読んだ小説のなかに「サローヤンの詩を読んだ」とあったので、手に取ってみたのだがそれは、息子の<アラム・サローヤン>のことだったのだろうか。
まあ、「高原」に在って良し。

ウイリアム・サローヤン/著
千葉茂樹/訳
杉田比呂美/絵
小峰書店/発行

<23>ル・クレジオ『砂漠』 [無謀なる365冊]

モロッコに行きたいと思って今に至っているが、未だに叶わない。
砂漠に行きたいと思っているのかは、わからない。たぶん違う。

以下引用〜

ララは母の歌をできるだけよく聞こうと思って息をひそめる。
《ある日、おお、ある日、鳥は白くなり、海は乾いてしまうでしょう。サボテンの花に蜜が宿り、アカシアの枝で寝床をつくるでしょう。ある日、おお、ある日、蛇の口から毒がなくなるでしょう。鉄砲の弾丸にあたっても、誰も死なないでしょう。だってそれはわたしが恋人と別れる日なんですもの・・・・・・》

〜引用終わり

不思議な歌は何連も続く。労働でもなく恋愛でもなく敗残ではなく、もしか呪い、予言、終わり、誕生、再生、、、、こうしてほぼ永遠の砂漠の歌が歌われる。

以下引用〜

「わたしにもそんな力があるかしら、アーンマ?」
アーンマは笑いだす。立ち上がって、背伸びをする。
「そんなことを考えるものではないよ」と、彼女は言う。「さあ、肉ができたよ。皿に置かなければ」

〜引用終り

それにしても今日はなんて寒くて強い風だろう、空が歌のように鳴り、窓の隙き間に悲鳴が生まれる。

以下引用〜

「で、でてゆけ!でてゆけ!い、いま、すぐにさ!でてゆけ!」
けれどもララはもう広間を駆けだしている。陽光が燦爛と輝いている戸外にとびだす。一度も立ち止まらず、一目散にアーンマの家に走り続ける。自由って、なんて美しいのだろう。かなたから流れてくる雲や、塵芥の小さな山のまわりをせわしくとんでいる雀蜂や、トカゲ、カメレオン、風のなかにそよぐ草をふたたび見ることができるのだ。

〜引用終り

なにかからから離れてなんと陽光の燦爛と輝くことだろう。でもここは砂漠の街ではない。わたしはあと三日で仕事に戻らなければいけない。カメレオンのように。

そして、砂漠、また砂漠。

以下引用〜

だがヌールはそれほど永く老婆のことを考えなかった。彼が踏み出す一歩一歩が一人一人の人間の死を意味するものであり、さまざまな思い出を消してゆくものであるからだ。砂漠の横断は記憶のなかのあらゆるものを毀わし、彼を別な男につくりなおしてゆくようだ。

〜引用終り

ヌールとは、いったい誰ですか? 空と時を越えた一体化、なんてほんとうにあるのだろうか? ヌールはほんとうに、かれなのだろうか? ほんとうに、わたしなのだろうか?

以下引用〜

けれども彼女は眠りたくない。どこかでぼんやりし、我を忘れたいが、そんなことができるだろうか?街はあまりにも危険で、金持ちの子供同様、貧乏な娘をも眠らせない。

〜引用終り

ごーごー、ごーごー。風の音をそう呼んだはじめの人は誰だろう。風が渦を巻いているのがわかる。
うーごー、うーごー。あるいは渦を巻いていないのかも知れない。

クレジオ 砂漠.jpg

2009年1月30日『新装版 砂漠』初版発行(旧装版は1983年)
訳者 望月芳郎
装幀 岡本洋平
発行所 河出書房新社

* 望月 芳郎氏(もちづき・よしろう=中央大名誉教授、フランス文学)
2003年4月5日死去、77歳。東京都出身。


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<22>たかとう匡子/詩集『女生徒(おんなせいと)』 [無謀なる365冊]

ご恵送頂きました。ありがとうございます。

この「学校の本」には、なにかを増幅させてくれるこころとことばが散らばっている。それが机の下でもこもこ蠢いていたり、机の上に血をながしたり窓ガラスを割って空に帰っていったりする。
帯に「この詩人にとって長年勤めた学校とは、ほんとうは長い長い夢魔だったのではあるまいか。」とある。当たり前のことだが、そう云われてもわたしにはわからない。

以下引用〜

 遠足


紅葉を踏んで
火祭りへと急ぐ
昨夜から胃が痛い
遠足は授業のある日より憂うつ
水筒にはこっそり父さんのブランディを入れてきた
気つけ薬というやつ

胃のあたりをぐっとおさえて
歩く
歩く
集団のなかのひとりになって列をみださないように
頭から爪さきまで晩秋
そのうえ絶好の遠足日和ときているから始末がわるい

紅葉のむこう側にエスケープできないかなあ
とおもっていたのに
木と草を組み
薪を重ね
燃えあがる炎のなかにわたし
すでに火祭りは宴たけなわだ

声は炎に吸い込まれ
やがてそれはぎざぎざの黒い影になって立ち上がったかとみる
 まに
追いかけてくる
追いかけてくる
だから紅葉を踏んで逃げる
ものすごいスピードになって逃げる
それはわたし
なんで逃げるのかなあ
こんなところまでなにしにきたのかなあ

それが遠足です!
せんせいにさんざん説教された

〜引用終り

「なんで逃げるのかなあ」ほんとだよねえ、、
「こんなところまでなにしにきたのかなあ」そうだよなあ。。

わたしはまだまだ長い夢魔の途中にいるらしい。

たかとう匡子onna seito.jpg
2009/09/29発行、思潮社

<21>昼も夜も/久谷雉 [無謀なる365冊]

アマゾンの古書店から買いました。発行が2003年11月なのでたぶん、2004年のはやい時期に旧マダムシルクのカウンターでママにみせてもらったような気がする。ぱらぱらとめくってママに返してしまった。

『俯いて、颯爽と・・・・・・』と云う清水哲男氏のしおりが入っている。
古書なので赤線がひいてあった。
(あたたか)
(指している方向はどこからどこに向いているのか。)
(颯爽とした雰囲気の必然性)
(「敗者」の自覚を持つ)(多くの優れた詩人に共通する姿勢)
う〜ん、古書だから仕方ない、前向きに理解の手がかりとする。。
以下引用〜

この「あたたか」が何の「あたたか」を指しているのか、指している方向はどこからどこに向いているのか。それを考えていくとこの詩人の姿勢がだんだん明らかになってくると思います。

〜引用終り
作品にも一カ所囲みが入っていた。『夏の終わりに』という切ない決意の詩。
〜以下引用

引き算されたようなあとのようなしずけさが
からだのなかいっぱいにみたされてゆく。

〜引用終り
ここ囲まないで欲しい、とか云ってもしょうがない。囲んでなかったらもっと心に響いた。これは作者のせいではない。しかし囲みがなかったらわたしが囲んで(引用して)いたかも知れない。現に引用したし、、

それでは、「これはちょっとすごいな」と感じた作品。
〜以下引用

賭博

ユウゲノ支度ノ
ハジマッタ
台所カラ
遠ザカリ ヒトリ
マルイカラダヲ
シカクク タタンデ
マダ 梨ノ実ノ
残リ香ノスル
段ぼーる箱ニ
タテコモリ
相手ノイナイ
ウゴク札束ヒトツナイ
シズカナ賭博ニ
ウツツヲ
ヌカス

ネンジルコト、
草ノナイ
野ニ
ヒソリト
倒レテ
日々 目ヲ
ヤセホソラセツヅケテル
サイコロノ
ツク
溜息ヲ。

ソシテ
数エアゲルコト、
サイコエロヲ
揺スル
掌ガ
湿ッタ灰ト
ナリハテルマデノ
トシツキヲ。

段ぼーる箱ノ
クラガリノスミデ
ワズカナ
上下ヲ
クリカエシナガラ
ホノアカクヒカル
霞ノオクニ
腕ヲマッスグ
ノベテヤリ
カチマケヲ分カツ
曖昧ナ糸ヲ
ツカミダソウト
シテ
ミタモノノ

炊ケタ 米カラ
アガッタ
匂イニ
アセモニ マミレタ
背ヲ
トラワレテ
箱ノ外ヘト
ヒキズリダサレ

箱ノカドカラ
カスカニ
シミダス
アカイ霞ノ
ナカデハ イマモ
賭博ヲトリマク
熟レキッタ 息ガ
カサナリ カサナリ
ヒビイテイルニ
チガイ
アルマイ

〜引用終り
全文引用いたしました。お許しください。

怖いね。この「賭博」ってなんなんだろう。判らないけれど決して縁遠くないものや事柄があるよね、それがわかる。なんてったって、段ボールのなかだ。それに炊けた米の匂い。こりゃ詩じゃなきゃ書けないぜ。あるいは久谷雉でなきゃ。。

発行:ミッドナイト・プレス
久谷雉/昼も夜も.jpg

<20>スピードマスター 川柳の教科書/堤丁玄坊 [無謀なる365冊]

図書館から借りて来ました。
以下引用〜

大木俊秀氏がNHK学園の通信講座「川柳入門」を解説された時の呼びかけで、川柳とは、

ズバリ斬る
ホロリ泣かせる
チクリ刺す
ニンマリ笑う
ポンと膝打つ

ようなものだと言っておられます。

〜引用終り
このあと「川柳が作れなくなったときに口ずさむと何かが浮かんでくると思います。」と暗唱を進めています。

現代詩にもこんな暗唱型の定義が欲しいものです。
安っぽくなるのでたぶんないのでしょうか?
こんど余裕のあるときに挑戦してみましょう。

ズバリ未来へ
ホロリ連帯し
チクリ抵抗し
ニンマリ読み解き
ポンと対峙する

これじゃなんのことか判りませんね。もちろん没です。

以前詩人に言われたことですが、きみはてにをはがなってない、それからそのまま今に至っていますが、すこしは勉強しなければ、、
以下引用〜

庭を崩して野にする
助詞の”に”や”は”を”の”に変えると句が引き締まるという意味。
これは江戸時代の「俚言集覧」にある言葉だそうです。短詩の助詞の使い方を指南したものです。

雨の夜は雨に抱かれる従順に
雨の夜の雨に抱かれる従順に

街中にマスクが歩く乾燥期
街中のマスクが歩く乾燥期

〜引用終り
どっちが良いのでしょう?

*俚言集覧(りげんしゅうらん);1797年。太田全斎著。主として江戸の俗語・諺をとりあげている。研究対象として返り見られなかった俗語を数多く採録したところに価値がある。

H19/2/11 新葉館出版
堤丁玄坊/川柳の教科書.jpg
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<19>水の出会うところ/レイモンド・カーヴァー詩集(黒田絵美子訳) [無謀なる365冊]

レイモンド・カーヴァー詩集「水の出会うところ」.jpg
三日前に『ブックマート赤羽店』で買った3冊のなかの一冊。
名前は知っているけれど読んだことのない膨大な数の作家の一人。詩を書いているということさえもよく知らなかった。まあだから<無謀>なのです。

その本については後日ここで取り上げるつもりだが、ある本を読んでから本の読み方をすこし変えた。(詩集には適さないかも知れないが)まずあとがきを読む、それから目次をじっくり視る、それから本文を読む。
今回最初に読んだのは「作者略歴」、小説家とは書いてなかったので詩人だと思いすこし愕然とした。1988年に亡くなっている。

なにせ<無謀>なのだから恥ずかしがることもない。最初の『ウルワース・一九五四』と云う詩でやられてしまった。順次読み進めると<やられ度>はすこしトーンダウンしたが、後半揺るぎないものになった。ゆらゆら揺れているところが<やられ度>が揺るぎないところだ。

以下引用〜

当時の思い出の中で一番印象に残っているのは、
ランジェリーの入った段ボール箱を開ける時のこと。
パンティーややわらかい、ふわっとした肌着類。箱から出して
かかえこむと、十六のぼくにもなにか、甘い不思議なかんじが
した。
ソルはそれを「リンガー・リー」と言っていた。
「リンガー・リー?」
なぜだかはわからなかった。でも、ぼくもしばらくの間、そう
呼んでいた。
「リンガー・リー」

              『ウルワース・一九五四』より  
〜引用終り

こんど、村上春樹の訳で読んでみよう。

1989/6/30初版、1989/9/20二刷発行
論創社



<18>ボルドーの白/山本博道 [無謀なる365冊]

ボルドーの白/山本博道.jpg
どんな詩集をいい詩集(詩)と云うのかは判らない。たとえば、ふつう感じの詩集(詩)が1で、いい感じ(わるい感じ)の詩集(詩)が2だとすると1.5くらい。(念のため10点満点とかの意味ではありませんのですよ。)
だいたいわたしはそんな感じで詩集を読み続ける。だからどんな詩集もだいたい1.5と云うわけで、ようするにいっつも詩(詩集)にたいしてそんな感じなのでますます判らない。わかりやすい文体なのになにかが足りないようだったり、わかりにくい文体のになにかが多すぎるような、、、、、止めます。

詩集『ボルドーの白』は1.5の詩集です。2倍に悲しいわけではないけれど、等倍の切なさだけのままでは終わろうとしない、語ろうとしないように思えます。すみません、この方の詩もはじめて読みます。それなのに1.5とか云ってすみません。
以下引用〜

ビールのジョッキを何杯も載せたボーイの盆の上で生と死は支えられる
最後の一滴まで飲み干したって褒美なんてありはしない
(『いまは、生きて』)       

〜引用終り
コメントも1.5だからと云うわけではないのですが、いちばん好きであった詩の最終2連を紹介します。
以下引用〜

日没の駅へ向ってぼくとすれ違ったその人が
携帯電話で誰かと話しているのをいちどだけ見たことがある
軽く傾く身体と無表情な顔は変わらなかったが
ぼくが耳を欹てていると
ひくい声のその人は何やら相手を慰めている口ぶりだった
それは何ヶ月も前の去年の秋のことだが
そのときの驚きをぼくはいまもって思い出すことがある

今日その人は黄色い薄手のコートをだらしなく羽織って
というよりじっさいはコートが身体に大きすぎるのだが
駅の方からまたひとりで歩いてきた
ぼくはとてつもない悲しみと喜びを交錯させながら
当然何も話しかけられないままその人とすれ違った
(「その人のこと」)

〜引用終り
じわじわと寄せてくる詩なのでありました。
1.5もなかなか素晴らしい。
もう2冊くらいは読まなければなりますまい。

1999年12月20日発行/思潮社

<17>分極論/小林弘明 [無謀なる365冊]

小林弘明/分極論.jpg
恥ずかしながらつづけて二回読みました。もちろん二回読んだことが恥ずかしい訳ではないのですが、わたしにとってそんなこと滅多にないので(これが恥ずかしい理由の1)。それだけ難解な詩集に思われました。

帯に書いてある詩句は作品の「抜粋」ではないようです。まとめ?

一回目は、「何故理解に遠いものを読み進めるのか、読み進むことができるのか」と云う思いでしたので、結論ではないのですが、この詩集は、「あれ、ほらあれ、*チベットとかのお寺でぐるぐる廻すやつ。鎌倉の長谷寺にもあったかな、一回廻すと何万語のお経を唱えたと同じご利益があるという、、、?」のようなものではないかと思えたのですが、ぐるぐる廻してお仕舞いじゃなぁと云うことで、二回目を読み始めたのでした。(これが、恥ずかしながらと云う理由の2)

帯の語句を読み落としたのだと思い、二回目に臨んだのでしたが、やっぱり出て来ませんでした。
帯とはそう云うものでもあるのでした。

(帯とは関係なく)以下引用〜

ひとつの補足のように接して、私のすぐ近くで、「生きたものは生きるであろう、物質はなにものでもない」と呟く人物。灰色の沈み込んだ身体のなかから忘れ去っていた持続が現われる。潜り抜けてきたのは二人だった。古い文字は濡れている。(『束の間の分極』)

そして死は記号化されてカリフォルニアの高速道路を流れ、サン・ナルシソ市街のゴミ箱の横に、酩酊でうろつく少年のジャンパーに、ノートの落書きに紛れ込み、パラノイアにしたてあげられていた。(『マージナル』)

長い旅で片方の足が消えていくような穏やかさ あけることのない夜への手先 名を呼んでみる 長い旅よ 記憶とは想起ではなく、 知られることのない刻印が露呈することだ すぐ近く肉の重なり、 分離していく 回想とわたしはふたりでしかない(『回想』)

〜引用終り
以上、なんとなく気に入ったお経をちゃんと唱えてみました。すみません、お経ではないのですが。

ちなみにほとんどの詩編に、「引用された語句」の出典が明らかにされているのですが、わたしはどの一冊とて読んだことがありませんのでした。なので、
・阿部日奈子「植民地の地形」
・薦田愛「流離縁起」
・吉田健一「金沢」
などは、是非今年中にでも、このマニ車も廻してみたいものだと思っております。

*ちなみにこの「ぐるぐる」は、マニ車と云うのだそうです。
マニ車mani03.jpg
僧院本堂にあるマニ車「マニ・コロ」© Ian Cumming(「ダライ・ラマ法王日本代表部事務所HP」より)

2009年4月25日発行/書肆山田

<16>詩誌 ガーネットVOL.57/大橋政人『志ん生とイエス・キリスト』 [無謀なる365冊]

ガーネットVol.jpg

面白い詩でした。

以下引用〜

空の鳥たちをよく見よ
蒔かず、刈らず、倉に収めることもしない

イエス・キリストという男も
こんなことを言っているが
鳥の身になってみると
(好きで飛びまわっている訳じゃねえんだ
見てるほど楽じゃないんだよ、こちとら)
と言いたいところだろう
それでも難癖をつけるでもなく
優雅に飛んで見せているのは
これは西洋の鳥たちの男気というものだろう

(大橋政人『志ん生とイエス・キリスト』部分)

〜引用終り

東洋の鳥たちも踏ん張らなければなるまい。


<15>詩集 夕陽屋 葵生川玲 [無謀なる365冊]

夕陽屋090409_163224_M.jpg

この詩集はネットオークションで手に入れました。以前、日本現代詩人会の理事長をやっていらした方ですが、詩を読んだことはありませんでした。
以下引用〜

しかし、これは作りものだ。
<板橋区>青い幟の抜文字がくっきりと白い
でも 生きて残ったものがみえるから 漂う草の匂いによって
感情を制することができる。

                    (『草市』部分)

〜引用終り
1982年発行/視点社             


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