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『インゲボルク・バッハマン全詩集』中村朝子 訳(青土社)より [『2011無謀なる366篇』]

『2011無謀なる366篇』vol.13
『インゲボルク・バッハマン全詩集』中村朝子 訳(青土社)より

初めて知った詩人で、付箋を28カ所つけてしまった。

以下引用〜

木々のなかに もはやわたしは 木々を見ることができない。
大枝には 風のなかへとかかげる葉はない。
果実は甘い、けれども愛をもたない。
                   (疎外「詩 1948-1953」)   

〜引用終り

木々や風や果実を歌うのに、すでになにかが既に失われている、こころがあり、その外側がある。

以下引用〜

ボン・ミラボー・・・ウォータールーブリッジ・・・
どうやって名前たちは耐えるのだろう、
名前のないものたちを担うことに?
                   (橋たち「猶予された時」)

〜引用終り

名前たちは、名前のないものたちに、耐えなければならないのか。名前のないものたちを担うとは、いったいなんだろう。

以下引用〜

わたしたちは言いなりのままに来て そして
憂鬱の階段で転び さらに深く落ちたと、
落下に対する鋭い聴覚を持って。
                   (ウィーン郊外の大きな風景「猶予された時」)

〜引用終り

言いなりのまま来た、転び、落ちた。それを聴いている。視ることができなければ聴こう。

以下引用〜

わたしの愛するお兄さん、いつわたしたちは筏を組み立てて
そして天を下りて行くのでしょう?
わたしの愛するお兄さん、まもなく積荷は大きくなりすぎて
そしてわたしたちは沈みます。
                   (遊びは終わりました「大熊座の呼びかけ」)

〜引用終り

言葉が、嫌な気持ちの、最悪のときの、萎えているときの、卑怯なときの、投げやりなときの、市街の人間たちの動きを、嫌悪することがある。それなのに言葉は救う、呼びかける。「遊びは終わりました」、家族たちに呼びかける。「遊びは終わりました」、物や事や動作たちに呼びかける。

以下引用〜

わたしは
雹に打たれてだいなしにされた頭で、
この手の書痙で、
三百の夜の圧力の下で
紙を引き裂き、
扇動された語のオペラを一掃しなければならないだろうか、
こんなふうに絶滅しながら、すなわち、わたし あなた そして 彼 彼女 それ

わたしたち あなたたち?

(だとしても。他の者たちはしてもよい。)

わたしの部分、それは消え去ってよい。
                   (デリカテッセンではない「詩 1964-1967」)

〜引用終り

発語が棘でできているようなので、遠目で読まざるを得ない。引用するにもガードをかけてピンセットなどで、丁寧に拾いそして落とさなければならない。それでも魅力的なこころを言葉が編んでゆく。

これから何度読むのかはわからない。もしかしたらもう読まないかも知れない。しかし、わたしにとってこの詩集は楔(くさび)となる言葉が浮かんではまた、沈みかけている。わたしにどれだけ掬いあげることができるかわからない。久しぶりに肚(はら)に来ている詩集である。






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