SSブログ

『本当は記号になってしまいたい』斉藤倫(装幀 名久井直子) [『2011無謀なる366篇』]

『2011無謀なる366篇』vol.14
『本当は記号になってしまいたい』斉藤倫(装幀 名久井直子)より


なんて手に入りにくい詩集なんだろう、と思っていましたが。入手しました。手に入りにくいのは、出版元がないのですね(個人って云うか)。奥附を視てそう思いました。素敵というかまあいいやというか。

とてもわかりやすく、素敵な詩集で、ふふふまあいいのよ、と、思わせるところがすごい。

以下引用〜


 世界


   「誰も見ていないときも
    いつもとおなじように
    森のなかで鳥は鳴いているとなぜいえるのか
    誰も見ていないときも
    街にはおなじように人々がいるとなぜいえるのか
    じぶんが見ていないときも
    世界がそこにあるとどうしていえるのか」
   「おまえがテレビを見ているあいだに
    お風呂にお湯がたまってんでしょ」
   「ほんとだ!」
   「便利だね」
   「うん 世界っていいね」


〜引用終り

おどろくっきゃない。わたしの付箋はこの「世界」ひとつ。しかしみどりに照り返すどんぐりを箱に戻すのに手間がかかる。つけた付箋を折らなきゃいけないし、「世界」が有ったり無かったりするもんだから、気持ち的にも手間がかかる。きっとそうとう手間のかかった詩集に違いない。それがひとつ。

もうひとつ。わたしは十代のすこし手前から十代のほぼ後半にかけて、目白と云うところに住んでいました。駅に行くには、目白通りを渡るのですが、あるときから横断歩道がなくなって、歩道橋に変わりました。歩道橋のうえに立つと世界が視えました。それはほぼ新宿のビル群なのですが、歩行の進路を変えるとビル群もすこし移動して視えたのです。わたしは世界の前で考えました、「ぼくが曲がって歩いたりするのをだれひとり知っている人は居ない。それだったら、ぼくが曲がって歩いても新宿が移動しなくても良いのじゃないか?新宿のビルが移動する事に何の意味もないのだから、新宿はだまって動かなくても良いのじゃないかしら。それなのに何で動くのだろう。」そんな無意味な考えを止めて、新宿を視るのを止めようと、ぼくは歩道橋の空中地面を視はじめます。そのときまた思いました。「ぼくが地面を視ているときに、新宿は無くてもいいよね。」視上げると新宿はまた在るのです。「新宿はほんとに在るのかな?」わたしの新宿不安が始り、新宿に直に確かめるために終電に乗って新宿に向います。さて、新宿はほんとうに在ったのでしょうか。どっちとも云えませんね。「世界」に近づこうと思って、すこし離れてしまいました。




nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。